1995年1月17日5:46am
前日に会社の仲間たちと新年会🍺をやってました。
当時、私はJR西宮駅の近くに住んでいて。。それも引越ししてきて3ヶ月。
TVがなかったので買おうかな❓と思ったけど、買わずに帰りました。
楽しい新年会🍺でかなりはしゃいだので、その日は早めに寝ました💤
翌日の1月17日 5:46am 自分の体がいきなり真上に突き上げられて、その後に
強い揺れに、ただただ耐える。。。揺れがおさまった瞬間は、何が起こったのか❓
把握することができませんでした。部屋の中は家具がなぎ倒されて、私はなぎ倒された
家具の間にいました。
スリッパを履いて外に出ると、信じられない景色を目にしました。
道路が崩れ、家が倒壊して、悲鳴が聞こえて。。
近くに、お世話になっている先生が住んでいたので、スリッパを履いてグチャグチャになった
道を走っていったことを思い出します。
それが、阪神淡路大震災の始まりでした。
これからどうしよう。。
パジャマのままで、先生のマンションに駆け込み、お互いに安否確認をしました。
「生きててよかった。」そこから私は、先生のマンションでお世話になることになります。
停電、断水が何日続いたことでしょう。朝、起きたら両手にポリタンクを持って、お水を
頂くことからスタート。片道約2〜3km歩きました。
「今日もお水を下さりありがとうございます。」と大きな声でお礼を言うことが精一杯できる
ことでした。
「人が生きていくために、一番に必要なのはお水。」これを体験しました。
私が住んでいる文化住宅はどぅなっているんだろう。。。
しばらく経って、片道1時間くらいかけて戻りました。。
文化住宅の壁に、赤い紙が貼ってありました。=全壊です。
しばらく呆然と立っていました。
余震も続いていたので、ここにいるのは危険。今のうちに出せる荷物は出したい。
私がお世話になっている空手の師範に相談をしたら、「まかしとき‼️今からいったる‼️」と
言って、その日の真夜中に出せる荷物を出して、マンションの11階まで、しかも階段で運んで
くれました。本当に心から感謝です。
住むところがなくて。。
先生のマンションでお世話になってから、今度は違う先生。この先生もお世話になっている先生です。
のご自宅に泊まらせて頂くことになりました。
温かい食事とお布団で寝させてもらったこと。体がポカポカして同時に涙が流れっぱなしでした。
「うめちゃん。これ食べ😃」という優しい言葉。どれだけ救われたことでしょう。。。
いつまでもお世話になっては申し訳ない。という思いもあり、当時、東急スポーツオアシスの社員だったので
会社の計らいで、江坂の東急インに泊まらせて頂きました。確か、8階だったかと思います。
余震が起きた時は、飛び起きて部屋の外に飛び出たことを覚えています。
独身の私は、部屋を借りるにも借りることができませんでした。
ファミリーが優先で、独身は後回しだったのです。仕方がありません。母親と一緒に不動産に足を運び
「1ヶ月間だったらいいですよ。」というワンルームマンションに住むことができました。
自分のこともですが、実家(神戸市北区)のこともずっと気になっていました。
しばらくして、一部の道路が使えるようになり、食材を買い込んで実家に帰りました。
実家も断水、停電が続いており、分厚い服を重ね着していました。
両親も元気だったのが、何より嬉しかったのと安心しました。
30年経った今日
ここ数日、TVで阪神淡路大震災30年。について当時の映像、写真を見ることがあります。
昨年までは、それらを見て「もぅ大丈夫かな❓」と思っていたけど、今回、フラッシュバックが
おこりました。恐怖心と胸の辺りが締め付けられる感じです。大きく深呼吸を何度も何度もすると
ようやく落ち着くという感じです。やはり、30年前に経験した被災は、残るものですね。。
阪神淡路大震災で被災をして、被災したからこそ。の経験をしました。
その経験をどのように捉えるか❓です。今、こぅやってブログが書けているのは、「生きているから。」です。
「生きているのだから、世の中に貢献して下さいね。」と神様に言われているように感じています。
もしかしたら、またフラッシュバックがおこるかもしれないけど、付き合っていこうと思います。
30年を迎えた今日、世の中に貢献できる人。
この生き方をやっていこうと思います。
今日のブログは写真はなしで、言葉だけのブログにしました。
読んで下さりありがとうございます。
阪神淡路大震災が起きた1995年に
神戸で生まれ、今も大切に歌い継がれている曲
『しあわせ運べるように』
http://www.shiawasehakoberuyouni.jp
聴いて欲しい曲です。
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